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P40 (戦車) : ミニ英和和英辞書
P40 (戦車)[ぴー40]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦車 : [せんしゃ]
 【名詞】 1. tank (military vehicle) 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

P40 (戦車) : ウィキペディア日本語版
P40 (戦車)[ぴー40]

P40(Carro Armato P40)またはP26/40(Carro Armato P26/40)は、第二次世界大戦中にイタリアで設計・開発された重戦車である。本車は75mm砲とブレダ8mm機銃、および追加の機関銃を対空機銃架に装備した。公式なイタリア軍における呼称は、カルロ・アルマートは「装甲車輌」、Pは「Pesante(ペサンテ、「重」の意)」、26は車重が26t、40は1940年制定であることを示す。
設計は1940年に開始されたものの、イタリアが連合国との休戦に調印する時期までに、ごく少数の車輌しか生産されなかった。またその後、生産された少数の車輌はドイツ軍によって使用された。
== 経歴 ==
1940年に設計開始されたものの、最初の試作車輛は1942年まで完成しなかった。当初の計画では、重量25t級の戦車を構想し、75mm砲を装備するもので、P26という名前を付した。開発作業は機関のみを除いて素早く進んだ。開発メーカーであるフィアット・アンサルド社はガソリンエンジンの搭載を支持し、一方でイタリア軍参謀本部(Stato Maggiore)はディーゼルエンジンを希望した。
しかしこの時期のイタリアでは、未だ必要とされた300馬力を発揮し得るディーゼルエンジンを開発することができず、新型ディーゼルエンジンの開発には非常に時間がかかるので、暫定的に初期生産型では液冷V型12気筒420馬力(310kW)のガソリンエンジンが搭載され、最終的にドイツ軍による後期生産型では新開発の液冷V型12気筒330馬力のディーゼルエンジンが搭載された。主兵装は試作1号車ではM35 75/18 砲(山砲ベース)、試作2~4号車ではM37 75/32 砲(カノン砲ベース)であった。
P40の設計は、試作3号車までは、より大口径の砲とより増加した装甲厚をのぞいて、M13/40の拡大版のようであったが、東部戦線においてソ連軍のT-34が出現した後、P40の装甲は速やかに再設計され、試作4号車からは、より傾斜角の大きな装甲配置(避弾経始)が採用された。さらに砲が強化され、75/34 砲(75/32 砲の2口径延長型。75/32 砲の弾薬を使用可能)が新開発され、量産車から採用された。75/34という名称は、75mmの砲口直径、および砲身長34口径であることを意味する。この砲は約700m/sの砲口初速を発揮した。ただし、当時整備された他の戦車砲の多くと同様、ドイツ軍の整備した長砲身75mm砲(48口径と70口径)よりは劣っていた。砲塔前面にはブレダ8mm単装同軸機銃が装備されていた。砲塔上面にはブレダ8mm単装機銃を増設することが選択可能。試作3号車までは車体前面右側にブレダ8mm連装前方機銃が装備されていたが、試作4号車以降は車体形状の変更に伴い無くなっている。
本車の砲塔前面装甲と防楯は傾斜しており、60mmの厚さを持っていた。従来のM13/40では42mm厚であった。しかし構造は未だ鋲接であり、同時期の戦車は溶接構造を採用して製造されていた。傾斜もまたT-34ほどの避弾経始を追求したものではなく、車体前面装甲は50mm厚で垂直に対し45度傾斜しており、T-34ではこれは45mm厚で垂直に対し60度に達していた。砲塔は2名で操作されており、これはT-34/76と同様である。機械的な構成は「M」シリーズの開発の流れを汲んでおり、サスペンションもまた同様であった。走行時の衝撃を受け止める緩衝装置は良好な信頼性を持っていたが、旧来のこの機構は、他の懸架方式、例としてはT-34のクリスティー型のサスペンションと比較して、発揮できる最高速度が低かった。
設計上の1つの変更点は、「M」シリーズと比較して大幅に減らされた機関銃の装備数である。P40は当初、3挺の機関銃を搭載運用した。しかし、車体正面に据えられたバーベット方式の連装銃塔が削除された。標準的な銃弾搭載量も約600発であり、これは「M」シリーズや、他の第二次世界大戦の戦車の多くが約3,000発程度を携行するのと比較し、より少なく設定されている。主砲弾は通常約65発を携行した。T-34とM4中戦車を比較すれば両車はおよそ90発を携行している。P40の主任務は、歩兵部隊の支援から対戦車戦闘に移行していた。車輛の内積はこの目的に即して設計されており、本車の内容を束縛している。
P40の設計はかなり斬新なものであった。しかしこの車輛は現代的な装備のいくつかを欠いている。例としては溶接構造、新型のサスペンション、車長用のキューポラである。本車の装甲はイタリア軍の標準的な仕様によって防御力を定められたものであった。これは乗員と内部構造を、イギリス軍の装備するQF 2ポンド砲(口径40mm)のような初期の対戦車砲から防護し得たが、1943年に登場した対戦車用兵器、例とするならば通常射程で100mm以上の装甲を貫通したイギリス軍のQF 6ポンド砲(口径57mm)、またはQF 17ポンド砲(口径76.2mm)には対抗できなかった。
これらの欠点にもかかわらず、イタリアが戦争中に実戦化したものとしては、P40は連合国およびドイツ軍の中戦車に相当する唯一のイタリア軍の戦車であった。25から30tの車重を持つこの戦車は、出現の2、3年前においては「重戦車」の範疇に分類された。フィアット M13/40 のような戦車設計は10から15tの車重を持ち、「中戦車」と考えられた。P40は重戦車と呼称されたが、国際標準においてこれは中戦車であった。P40は、カーデン・ロイド豆戦車に端を発するCV29やL3/35のようなタンケッテにはじまり、それからこれら従来のタンケッテが持つ、多くの特徴を共有しつつも、より大型化されたM11/39中戦車のようなモデルへと進化を遂げて行った、イタリアの戦車設計の最終地点であった。
1,200輌のP40が発注されたが、うちごく少数、資料によっては1輌から5輌とされる試作車輛が1943年9月のイタリア休戦前に完成した。休戦の後、その場でこれらの車輛はドイツ国防軍に接収された。約100輌のP40が戦争終結までアンサルド社によって生産されたものの、40両がエンジンの不足のため、完成に至らなかった。60両が「PanzerKampfwagen P40 737(i)」の呼称でドイツ軍に徴用され、アンツィオで戦闘に投入された。またエンジンのない車体40両が、固定砲台としてトーチカなどに使用された。
== 派生型 ==
P40には少なくとも2種類の派生型が計画された。1つは"P43"と呼称されたもので、車重が30tを越えるものである。本車は80mmの正面装甲を持ち、主兵装には長砲身75mm砲か、または、同時期に開発されたセモヴェンテ da 90/53 の搭載する90mm砲を採用した。しかしながら、この派生型は木製のスケールモデルが2台作られるにとどまった。構想では、推定出力480馬力のエンジンを装備し、ガソリンで駆動した"P43 bis"と呼称される、さらにアップグレードの図られた派生形も存在した。
もう1つの構想はセモヴェンテ da 149/40であり、これはP40の足回りを設計の基礎とした。これら構想された車両のうち、1輌のみが生産された。本車は高い機動力を持つ自走砲であることを目標とし、その主兵装はイタリア軍において最も強力だった。149mm/40口径砲は、23km以上の射程を持ち、これは米軍の装備するM59 155mmカノン砲とほぼ同等である。この砲は極少数が生産されたに留まり、戦争中のイタリア軍砲兵隊は主として旧式な砲を装備したままであった。本砲はその自重のために、移動するには非常にかさばるものであった。そこで、自走式の砲を製造することが決定された。それには全イタリア軍用車輛の中で、最も強力な車体を利用する必要があった。車体のほぼ全ての空間が砲を搭載するために占有され、弾薬と搭乗員は別の車輛で移動することを余儀なくされた。従来、牽引式では戦闘状態へ展開するために17分が必要であったのと比較し、自走砲形式では停車から3分で砲撃準備が整えられた。
セモヴェンテ da 149/40の研究は1942年に開始され、試作車輛が1943年に試験されたが、イタリア軍にとり本車はさしたる感銘を与えなかった。休戦の後、車両はドイツ軍が接収した。本車は彼らにも興味を示されなかった。最終的に、アメリカ軍はドイツ軍の侵攻中に本車を捕獲し、試験のためにアバディーン性能試験場へ輸送した。本車の緩衝装置を除いた全体的な設計思想は、米軍のM107自走砲に類似している。
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